記憶の行方
なんてことだ。 恋人の記憶が失くなった。 どうしよう。こんなこと、はじめてだ。
朝起きると、横で眠っていた恋人が言った。 「おまえ、誰?」 ヤツは素っ裸で、そこら中に昨日の痕を残した躯を惜しげもなく曝して いる。 俺はといえば、同じく素っ裸で、負けず劣らず鬱血を残しているというの にも関わらず。 ふざけているとしか思えない。 「愛しの隆司くんゥ」 俺がそう言うと、彼は怪訝そうな表情をして俺を見つめた。 「誰? リュージって? 俺らナンデ裸なわけ?」 いつものオフザケかと思ったけど、そういうわけでもなさそうだ。 何よりも眼が違う。 いつも俺を見つめる駿じゃない。 事の重大さに気づいて俺は愕然とした。 「記憶……喪失……?」 でもナンデ? 自分で言うのもなんだけど、俺たち結構ウマくやってたと思う。 ケンカはしょっちゅうしてたけど、別れ話が出るほどの大きなものじゃ なかったし。 「記憶喪失? 俺が?」 自分のこと、忘れてないのに? と駿は不思議そうな表情をした。 「今、何年かわかる?」 「はっ? 何言ってんの? 1997年だろうが」 6年前!! 駿の記憶は6年前に戻っているってことか!? 「じゃあ、今ハタチのつもり?」 「はぁ? つもりも何も、ハタチだっつーの」 完全、記憶喪失。 病院とか連れて行ったほうがいいのか? 会社にも連絡しないと。 「今は2003年。おまえは26だよ」 意外にも冷静な自分に驚く。 忘れられてるのに? 最愛の恋人に自分のことを。 「ちょっと待ってろ。病院行こう」 俺はそう言って、まず会社へ連絡する。 俺はともかく、駿は長期休暇を取ったほうがいいんだろうか? 記憶がなくっちゃ(しかも学生のつもりでいるんだから)仕事わかんない よな……。 「えっと……俺とおまえって恋人?」 どうしようか考えている俺の背後で駿が言った。 「全然、憶えてないんだけど。っていうか、おまえのこと、知らんし。 ハタチんときってまだ友達にもなってないってこと?」 「うん。俺たちは入社式で出逢った」 俺がそこで駿に一目惚れしたんだ。 「ふぅん」 興味がなさそうな相槌を打つ駿。 「俺の服ってどこ?」 「その辺に脱ぎ散らかしてあるだろ?」 俺はそう言って受話器を手に取った。
「どこにも異常は診られません。正直、脳の仕組みはわからないことばかり なので何とも。また何かあったら来てください」 医者はいい加減なことを言い、俺たちは病院を後にした。 「しょうがないか。とりあえず、ウチ戻るわ」 「実家に?」 「何? 俺、今、一人暮ししてんの?」 そんなことさえ忘れている。 俺は小さく頷いた。 「んで、ごめん。おまえのことも思い出せそうにないし、ぶっちゃけ、自分が 男とつきあってエッチしてるってのも想像できない」 そりゃそうだ。 駿は元々ノーマルで、一目惚れした俺が無理矢理誘ったようなもんだった んだし。 「仕事……って、俺ら職場同じ?」 「そう」 「仕事かぁ……。どうしよっかな〜……全然わかんないし、辞めたほうがいい のかぁ〜?」 「なんで……」 なんで簡単に辞めるなんて言うんだ? あんなに好きで、あんなに一生懸命働いてたのに…… 「?」 「とりあえず、休暇取っておいたから……」 「わかった。何かあったら、連絡して」 じゃあ、と駿が背を向ける。 俺って駿にとってどうでもいいの? いてもいなくても同じ? 「待って……!」 駿の服の袖を掴む。 「俺ん家、行こう」 何か言いたげにしてた駿を無視し、彼を引っ張って帰った。
「どうした?」 「やっぱ、ダメだ。俺は駿に俺のこと、思い出して欲しい」 俺と恋人だったこと、俺を好きだったこと。 「でも……」 「そんな簡単なもんじゃないってわかってる。それでも……しばらくはココに いて……」 その言葉に駿はしばらくどうしようか考えている様子だったが、それでも 頷いてくれた。
それから俺は写真なんかを引っ張り出して、駿に思い出を語った。
「ごめん。わからないよ」 どうして憶えてない? その指で俺に触れ、その唇で俺への愛を語った。 「どうして……」 俺は駿を抱きしめた。 自分より大きな躯の駿に俺が抱きついてるみたいだったけれど。 駿はただ悲しそうに俺を見つめる。 「ごめん。憶えてなくて」 駿は辛そうな表情をして俺を抱きしめ返した。 駿に辛い思いをさせたいわけじゃない。 何が原因でこうなった? 何が駿を、俺を苦しめる? ただずっといっしょにいたいだけなのに。
それからも俺は、必死になって駿との思い出を語り、彼の記憶を取り戻そう とした。 「無理。思い出せない」 「諦めないで」 何故そう簡単に諦める? 「なんでおまえはそんなに思い出せたいわけ?」 「おまえが俺を愛したことを忘れてるから」 「忘れてるとなんか問題ある? おまえが辛そうな表情すると、俺まで辛く なる。俺は記憶なんてもう必要ない。今、俺がおまえを愛してるっていうこと がわかってるから」 駿はそう言って哀しそうに目を伏せた。 「おまえが好きだ。愛してるよ? でもおまえが好きなのは俺じゃない。 以前の俺だろ? おまえはまるで俺が俺じゃないように言うけど、じゃあ 俺は誰?」 「…………」 「人間はなんで自分が自分だとわかるか……それは記憶があるから。 記憶があるから過去の自分と現在の自分が同じだとわかる。 でも俺には6年間の記憶がない。だから俺はその6年間の自分が俺だとは 理解できないんだよ」 駿は複雑そうな表情で笑顔を作り、俺を見つめた。 「ごめんな。おまえの愛してた駿にはなれないよ」 「ごめん。俺の方こそごめん。無理に思い出させようとして。記憶が失くった って、駿は駿なのにな」 忘れていたのは俺の方。大事なことを忘れていた。 記憶なんて関係ない。 出逢った頃はお互いを知らないのに、いつからそんなに記憶を必要とする ようになったんだろう。 「愛してる、隆司。おまえが好きだ」 駿は俺をそっと抱きしめ額にキスをした。 「好きだよ、駿。俺が愛してるのは間違いなくおまえだ」 |