うたかたの日々
−壱−
「東の谷には行ってはいけないよ」 昔から何度もそう言われ続けてきた。 この村には決して犯してはいけない禁忌があった。 それが “東の谷へ行くこと” だ。 「あの谷には鬼が出る」 村にはそういう言い伝えがある。 実際に谷へ入って生きて出てきた人間はひとりもいなかった。 僕が、谷に入るまでは―――…
しかし僕にはそのときの記憶がない。 たしかに谷へ落ちたことは憶えているのだが、そのあと村の人間に 見つけられるまでの十日ほどの記憶が何故かない。 村の大人たちはよほど恐ろしいことがあったと思ったのか、無理に聞き 出そうとはしなかったけれど。
あれは十年ほど前の出来事。 隣の家の鉄線と遊んでいたときのこと。 「谷へ行ってみないか?」 鉄線がそう何気なく言った一言。 「で……でも……」 鉄線と違って臆病者の僕。 「近くに行くだけだって」 鉄線は僕の言葉など耳に入っていない様子で目を輝かせた。 「大丈夫。俺が守ってやるから」 そう言われ、僕は鉄線といっしょに行くことにした。
「あそこが谷だ」 鉄線は誰も近づこうとしなかった谷を今、自分が目の前にしていることの 満足感に浸っていた。 「鉄線……もう帰ろうよ……」 僕は鉄線の着物の袖を掴んで、そう訴える。 「桔梗はほんとに怖がりだなあ」 鉄線は笑いながら僕の手をとった。 「大丈夫だって。ちょっと待ってろ。あそこに桔梗が咲いてんだ。 知ってたか? このへんの桔梗がいっとう綺麗なんだ」 そう言うと鉄線は僕の手を離し、笑顔で駆けていく。 「鉄線……」 鉄線が僕のために花を摘んできてくれることは嬉しかったが、それにも 増して鉄線の手が離れた不安のほうが僕には大きかった。 そして、その不安は現実になった。 鉄線が花に駆け寄ってすぐ、あたりに霧がかかった。 「鉄線……?」 僕は鉄線が駆けていったほうに向かってゆっくりと歩き出す。 「桔梗! どこだ!?」 前方から鉄線の声がする。 僕は半泣きになりながら、声のするほうへ走り出した。 「鉄線!」 しかしそう叫んですぐ、僕は谷へと足を滑らせたのだ。 「わあ―――!」 「桔梗!」 上のほうで鉄線が僕の名前を呼んでいるのが聞こえた。
そして十日ほど経った頃、鉄線とはぐれたあの場所で僕は見つけられた。 大した傷もなかったので、村の大人たちは無理に思い出さなくてもいい、 と言ってくれた。 でも子供たちには興味があったみたいで、いろいろな質問を僕にぶつけて きた。 そしてその度に何も答えられない僕を鉄線が助けてくれていた。 十七になった今でも、あのときのことは思い出せない。 皆の言うとおり、あまりの怖さに記憶の底に沈めざるを得なかったのかも しれない。 |