うたかたの日々
−弐−

 

「桔梗!」

 鉄線が僕の名を呼ぶ。

「何?」

 僕は振り返って鉄線を見上げる。

 鉄線は幼い頃も大きかったが、今では六尺以上もある。

 五尺余しかない僕の背では、首が疲れるくらい上を向かないと彼の顔が

見えない。

「今から狩りに行くんだ。桔梗も来ねえか?」

 鉄線はきらきらした瞳でいっしょに行こう、と僕に伝えた。

「でも、僕じゃ役に立たないんじゃない?」

 村いちばん小さくて細い僕は狩りや畑仕事に向いていなかった。

「そんなことねえよ。いっしょに行こうぜ」

「……わかった」

 僕がそう言うと、鉄線は嬉しそうに笑って歩き出した。

 

 

 

「どうしたらそんなに大きくなれるの?」

 鉄線の背中に向かって、そう問いかける。

「うん?」

 鉄線が振り返り、僕を見る。

「僕も大きくなりたいな……」

 僕が呟くようにそう言うと、鉄線は太い腕で僕を抱き上げた。

「俺は桔梗好きだぞ。ちいさくて、細くて、軽い。おまけに村いちばんの美人

だ」

「そんなの誉め言葉になってないよ。僕は男なのに……」

 僕が肩を落とすと、そんなこときにするな、と鉄線は大きな口を開けて

笑い、僕を降ろす。

 そして僕たちはまた歩き出した。

 

 

 

「ねえ、鉄線。狩りってここでやるの?」

 鉄線の背中越しに見える風景に僕の足取りは重くなる。

「なんだ、怖いのか?」

 鉄線が振り返り、意地の悪い表情で僕を見る。

「……怖いよ」

 ここは昔と変わらぬ姿で僕を見つめる。

「大丈夫だって。今日は霧も出てねえし」

 あれからこの場所には一度も来ていなかった。

 それがなぜ、桔梗の咲き始めたこの時期に……

「心配すんな。そっちの谷のほうじゃねえ。あっちだ」

 鉄線は谷とは反対方向の木のたくさん生えた山路を指差した。

「うん……」

 それでも僕の不安な気持ちは消えなかった。

 今度こそ本当に生きては帰れないかもしれない、そんな気がして……

「桔梗、何やってんだ? 早く来い」

 鉄線が手招きをする。

「待って」

 僕は鉄線に向かって駆け出した。

「鉄線!」

 急にあたりに霧がかかった。

「桔梗!」

 あのときと同じだ。

 僕は不安になって声のするほうへ走り出した。

「桔梗! そこ動くな! 俺がそっちに行く!」

 鉄線が大声でそう言った。

「鉄線!」

 僕はそれでも足を止めることができない。

 一瞬でも鉄線の声が聞こえないだけで、不安でおかしくなりそうだった。

「桔梗!」

「鉄線!」

 僕は声のするほうへ進む。

 でもこの霧でどっちがどっちかよくわからない。

 本当にこっちで合っているのだろうか?

 そう思った瞬間、

「桔梗!」

 後方から鉄線の声が聞こえた。

「鉄線?」

 まさか、という気持ちが胸一杯に広がる。

 まさか逆方向に全力疾走していたのだろうか。

 僕は慌てて振り返った。

「桔梗!」

 鉄線が僕の名前を呼んだ。

「鉄線!」

「桔梗! そっちは谷だ!」

 そう言って鉄線が駆けてくる音が聞こえた。

「それ以上動くな!」

「鉄線!」

 そう言われても、この霧の中でじっとしていることは、僕にとって何よりも

辛いことだった。

 あのときのことが頭から離れない。

「鉄線?」

 僕は恐る恐る一歩足を踏み出す。

「桔梗!」

 その瞬間、僕は足を踏み外した。

「わっ!」

 そして僕は再び谷へと足を滑らせた。

「桔梗!!」

 あのときと同じように、上のほうで鉄線が僕の名前を何度も叫んでいるの

が聞こえた。

 

壱  完結  参