うたかたの日々
−睦−
目が覚め、傍らで眠る薊の血の残る肩口に唇を寄せた。 「帰り……たいか……?」 眠っていると思っていた薊はいつのまにか目覚め、その眼は僕を見つめて いる。 「……わからない」 それが正直な答えだった。 帰りたいとも思う。 父様や母様がいる家へ。鉄線がいる村へ。 「どちらも、大切だから」 薊とも離れたくない。 僕の大切な人だから。 でもこのままここで暮らしていくことは出来ない。 それは僕にもわかってる。 「行こう……」 薊が静かに言った。
僕らの別れが決まった。
帰り道、僕らは色々なことを話した。 重くのしかかる別れを忘れようとするかのように。
日の出前の里に鬼の姿はなく、それでも僕たちは人目を避けるように 細い道を進む。 ただ大切な人と共に生きたいと思う。 それさえも叶わないことを僕ははじめて知った。 「こんな道があるんだね」 人には見つかりにくいだろう細い道が村に続いているのだと聞き、僕は 素直に驚く。 でも考えてみれば、血を飲むために村に通っているならば道くらいある はずだ。 「僕も、ここから帰ってきたんだろうか……」 「……どういうことだ?」 思わず零れた呟きに薊が振り返る。 僕は子供の頃、同じように谷から落ちたこと、しばらくして無事村に帰れた ことを語った。 「あのときも大きな怪我をしてなかったんだよ。不思議だよね」 そう言うと薊は大げさに驚いた表情をし、いや、でも、などと呟いた。 「どうかしたの?」 気になってそう訊けば、薊は僕をしばらく見つめたあと口を開いた。
「昔、谷から落ちてきた子供がいた。俺が見つけたんだ。 父様が人間の子だ、と言った。はじめて見た人間だった。 綺麗な子供。沢山血を流していた。 どうにか助けてやりたかった。でも俺にはその術がわからない。 そう言うと、父様がその子供に血を飲ませたんだ。 自分の腕を噛み、流れてきた血を子供の口に付けた。 寿命の長い俺たちの血は怪我を治す力があると教えてもらった。 ただし、一度だけ。 二度俺たちの血を飲んだら、それは人間ではなくなると……」
僕が、その子供……? 昨日飲んだ薊の血の味が蘇る。 懐かしい味がしたあれは……? 「鬼に、なるの?」 薊と共に在り続ける鬼に。 「違う。他の生物が鬼になることはない」 じゃあ、僕は? 鬼でもなく、人間でもなくなった僕は?
「桔梗!!」
村に続く道の出口。 聞き慣れた懐かしい声が聞こえる。 「桔梗! 無事だったんだな!」 僕の無事を喜んでくれる人。 「早く帰ろう!」 薊を睨みつけるように見つめて鉄線は徐々に近づいてくる。 はじめて会ったときの僕のように、鬼だとはまだ気づかれていない。 「早く逃げて」 薊に向かい直し、鉄線に聞こえないよう囁く。 「だが、」 薊の言いたいことはわかっている。 僕がどこにも行けないことも。 それでも彼だけは生きて欲しい。 「行って。薊は生きて」 心優しい鉄線が薊を殺めるとは思いたくない。 それでも鬼とわかったときは、 「早く」 その言葉に薊は一度鉄線を見、僕をきつく抱きしめた。 昨夜のように。 離れたくないのは同じだとでも言うように。 「生きて」 走り去る薊の背にそう言って僕は零れた涙を拭った。 「桔梗、無事だったんだな」 変わらぬ微笑で僕を見つめる鉄線を安心させるように笑顔を作った。 「あれは、誰だ?」 「助けてくれたんだ」 僕はそれ以上言わなかった。 きっと聡い鉄線は気づいているだろう。 彼が人間ではないだろうことに。 それでもそうか、と言ったきり、訊いてこようとはしなかった。 「帰ろう」 背を押され、歩き出す。 薊とは違う道を。 |